「人生楽しく生きたいな~」
ボクはそう思って生きるように心がけています。
「きっと誰でもそう思っているはずだよね」
そう思って生きています。
ボクという「個」が「楽しく生きたい」と思っています。
ボクの他の「個」も「楽しく生きたい」と思っています。
みんなが「楽しく生きたい」と思っています。
そんな「個」同士が集まって「社会」というものが
カタチつくられています。
「社会」とは、きっとおんなじ気持ちを共有できる人たちが
助け合って「楽しく生きるやくそく」をしたから、出来たんです。
だからボクは、家族や友達、仲間と、楽しく、安心して
「社会」というやくそくのわくぐみ中で生きています。
人が「社会」という、楽しく生きられるための
みんなの大切なものを安心して守れるための
やくそくのわくぐみをつくってから、
どのくらいの時が過ぎたのでしょうか。
今も、昔も、人が求めることは変わりません。
誰もが「楽しく生きたい」と思っています。
しかし、今、みんなが忘れかけていることがあります。
それは、みんなが今、一緒の「社会」の中にいるのは
みんながおんなじ気持ちを共有したから、ということです。
いつからか昔から廻り続けていた歯車が
狂ってしまったのでしょうか。
みんな、誰もが、「自分だけが楽しく生きたい」
と思うようになりました。
「自分の生き方」「自分の権利」を強調するようになりました。
「自由」や「権利」を主張することによって、
自分以外の「個」をないがしろにするようになりました。
果たして、今、ボクたちのいる「社会」には、
家族や友達、仲間と、楽しく、安心して暮らせる、
やくそくのわくぐみはあるのでしょか?
人は、元来、助け合い、支え合って、
生きてきました。
それは、ボクたちの遠い遠い祖先から
ボクたちに、脈々と受け継がれてきた精神です。
それは「やさしさ」「思いやり」といった精神です。
お互いが、この精神を持ち合わせているから、
楽しく、安心して、暮らせていたのです。
今、「個」と「個」の関わりが希薄になって、
そういった精神が忘れ去られようとしています。
ボクたちは誰もひとりで生きていくことはできません。
だから、ボクたちは思い出さなくてはいけません。
なぜ、ボクたちは、同じ場所に一緒にいるのでしょうか?
なぜ、ボクたちの遠い遠い祖先は、
「社会」というものをカタチつくったのでしょうか?
なぜ、ボクたちは「社会」の中にいるのでしょうか?
きっと、みんなで支え合って生きていくことが
ボクたちひとりひとりのためになるから、ではないでしょうか。
だから、ボクたちひとりひとりは、みんなのために。
みんなは、ひとりひとりの「楽しく生きたい」のために。
それが「公共」の精神。