今日は雨の日です。
「晴耕雨読」
雨の日は、ちょっと読書でもしながら
こころ穏やかに過ごしたいものですよね。
雨の日は「哲学」の日です。
こころとは水を媒介にするとひとと通い易くなると言います。
自分の内面を見つめ、ひとともこころを通わせてみましょう。
「ありがとう」
最近、本やテレビでよく、
「ありがとうを言う習慣をつけましょう」
「私は必ずありがとうと言うようにしています」
などのコメントを見かけます。
とてもよい心掛けだな、と思う反面、
まるでひとつの挨拶のように使われる「ありがとう」に
その言葉の持つ本質が失われつつあるのではないか、
という不安がよぎります。
「ありがとう」を漢字で書くと「有難う」となります。
ボクが個人的に思うに、「ありがとう」という言葉は
本来、何か希少な経験を味わった際に、それをもたらしてくれた
対象に対して使う、感謝の意を表す言葉だと思うのです。
もちろん、だからと言って「ありがとう」を頻繁に使ってはいけない
とか、挨拶みたいな「ありがとう」を否定するつもりはありません。
ただ、使う側や受け取る側の意識が不安なのです。
考えてみてください。
例えば、貴方の身の回りに「有難いひと」は何人いますか?
「本当にこの人が自分の人生にいてくれてよかった」
「この人がいてくれて救われた」と感じさせてくれるひとです。
例えば最近、本当に「有難い経験」はありましたか?
自分の人生観に少なからずよい影響を与えてくれた経験です。
思うに「有難い経験」というのは、まるで
宝くじで1,000万円当たるとか、1億円当たるとかくらいの
人生の「サプライズ」だと思うのです。
もし貴方がそんな「サプライズ」を誰かからもたらされたとしたら
貴方はその誰かにどんな「ありがとう」を言いますか?
きっと、挨拶のようには言えないのではないでしょうか。
貴方の周りにいる「有難いひと」というのは
きっと、宝くじが大当たりするくらいの「確率」で
貴方の周りにいてくれています。
そして、そのひとはあなた「有難い経験」を
もたらしてくれているはずです。
そして、そのひとはきっと貴方の周りにたくさんいます。
それはボクらの隣人だからです。
ボクらは、ボクらの隣人にだけは、こころを込めた
「ありがとう」
を感じるべきだと思います。
それが「ありがとう」の本質のような気がします。
毎日挨拶を交わせるくらい近くにいるひとたちに
感謝の気持ちを感じることが本質のような気がします。
しかし、もしかしたらいつもは感じられないかも知れません。
むしろ相対的に見れば感じない日のほうが多いかも知れません。
当然です。それは「有難い」のですから。
でも、大当たりが「過去」「現在」「未来」のどこかには
あった、もしくはあるはずです。
そしてそれは隣人からしかもたらされないものです。
「有難いひと」たちに、ほんとうの「ありがとう」を。
こころを込めて。
もちろん、ボクの周りの隣人にも。
「ありがとう。貴方たちがいてくれて本当によかったです」